日本が元寇に勝った理由
昔書いた内容の補足になりますが。
最大の焦点は「なぜ元軍は、わざわざ台風が来ている洋上に留まったのか」です。神風で勝った、なんてことはありません。これは当時の現場を想像すればすぐに分かります。
なぜ改めて書こうと思ったかは、以下の記事。
「元寇」はなぜ失敗した? 神風が日本を救ったのか、それとも元軍が愚かだったのか=中国
http://news.searchina.net/id/1685690?page=1&fbclid=IwAR2Ibpqzt0Y34s58Ray5PI-_3U1dGE5-6FLJWFeYWTUX9I2jUw_jeWggWKk
記事内容は読んでいただくとして、以下は私の見解です。
まず、よくある「元寇についての誤認識」は以下。
- たまたま台風が来てくれたので、絶体絶命だった日本は助かった。
- 武士が名乗りをあげて一騎打ちを仕掛けているのに、元軍は集団で襲ってきた。
- 元軍は騎馬兵で、武士は徒歩で戦った。
元軍は何をしたかったか
ブラッド・ピット主演の『トロイ』を観た人なら分かりやすいのいですが、洋上から襲う軍勢の最初の目標は、上陸地点の敵を蹴散らして陣地を築くことです。
フビライは日本攻略にあたり、揚州、湖南、泉州、広州、朝鮮半島の全羅道、慶尚道に造船命令を出し、江南軍10万と高麗・モンゴル連合軍3万5000を投入しました。
元軍が最初に博多に姿を現すのは6月初め。そこから志賀島に上陸し、7月初めまで湾内の戦いが続きます。
そして1ヶ月以上戦った後、元軍は船に押し込められたまま台風に遭遇。つまり台風の前に元軍は負けているのです。
またモンゴル軍というと騎馬兵のイメージがありますが、水や飼葉のことを考えると、当時の技術で人数分の馬を海上輸送するのは不可能です。
結果、彼らのほとんど(もしくは全員)は歩兵でした。
鎌倉幕府の対応
元軍は、日本の前に南宋を滅ぼしています。
この南宋と幕府はかつて同盟関係にあり、北条時宗は南宋からの亡命者や貿易商人を厚め、逐一情報を得ていました。
そのため元軍到着前には上陸地点を正確に予想しており、要塞を築いて全国から御家人の集結も完了済でした。
博多の人口
12世紀で1万人弱、16世紀でも5万人くらい。
(近代以前の日本の都市人口統計)
文永の役が1274年なので、多めで2万人と見積もったとしましょう。その程度の人口の港に14万もの大軍勢が上陸可能とはちょっと考えにくい。
現代ならトム・ハンクスの『プライベート・ライアン』みたいに、爆撃や艦砲射撃で援護しながら物資を上げていくところですが、
当時は座礁リスクもあり、小舟で分乗して来るしかありません。
すなわち兵力が分散しますので、幕府側は陸地で待ち構えて各個撃破すれば良し。
鎌倉武士の戦い方
対峙する日本軍の数は6万人ほど。
ただし当時の武士は「弓馬の芸」というくらいで、主な武器は騎乗しての弓矢でした。
ヨーロッパのロングボウが大きいもので2メートルほど。
対して武士の和弓は、定寸が7尺5寸(約2.3メートル)。
さらに和弓は両面を削った木に、炭化させた2枚の竹を合わせて靭性を確保し、強い攻撃力を誇りました。
源為朝は8尺5寸、8人張り(7人で弓を曲げて1人が弦をかける)の強弓を用い、一矢で大鎧武者を3人貫通したといいます。
これは例外としても、5人張りくらいは普通に存在したようです。
で、そんな長弓を馬上であやつるには、数年におよぶ訓練が必要です。
つまり大の男にそんな訓練をゆるす社会でなければなりません。
重装長弓騎兵
この頃、世界のほとんどの国では、騎兵なんて全軍の5%もいませんでした。ほとんどが歩兵。
ヨーロッパなどは騎兵、歩兵、弓兵と専門分化するのが当たり前で、たとえば槍兵が援護しつつ弓兵で攻撃。続いて歩兵の突撃、といった感じです。
騎兵は虎の子であり、神速の機動力で最前線を突破する、または後方の歩兵補助に用います。
(『風の谷のナウシカ』コミックス第3巻のサパタ砦突破戦で、クシャナがこの運用を行っている)
そんな騎兵を大量に擁したところにモンゴル帝国の強さがあったのですが、対日本ではこれの真逆の状況に置かれました。
何せ鎌倉武士は、なんでもできるオールマイティな集団です。
和弓の長距離攻撃、騎乗の機動力、さらに重装備の防御を兼ね備えた「重装長弓騎兵」といったところですが、さらに太刀や槍もお手の物。
アウェイだった元軍にしてみれば、敵の日本軍は地形を熟知しつつ、アウトレンジで機動攻撃をしかけてくる。
やっと近接戦に持ち込んだと思ったら、白兵戦の練度も高い。
まとめ
ですから記事にあるように「元軍側のミスが敗因」というのは厳しい見方でしょう。
地の利を活かしつつ、練度の高い戦力を数万規模で動員してくる国に出会ったのは、おそらく日本が初めてだったはずです。
日本の武士がいちいち名乗りを上げたというのも誤解で、名乗りは敵ではなく味方に対して「オレの手柄だってこと、みんな見てくれよな」という意味で行うものでした。
日本が神風で偶然勝った、なんていうのは当時戦った人々への冒涜。
戦う前にやるべきことを正しく行い、勝つべくして勝った。それが元寇です。
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