シン・ゴジラにドはまり中
3日前に観ていらい、ずっと仕事の合間に『シン・ゴジラ』のことばかり考えている。『シン・ゴジラ』は邦画の将来を思えば、何がなんでも大ヒットしてほしい。
なぜなら本作には、分かってない連中がくりだす「売れるしかけ」が一切ないからだ。
物語を停滞させるだけの、ヘタクソな家族愛・人情話・恋愛模様は一切ない。
(一応言っとくが、私は恋愛モノ、家族モノ、人情モノは大好き。ここで言ってるのは「とってつけたような、ヘタクソなやつ」のことだ)
「唐突に出てきて主人公の無事をねがう娘または姪を演じる女性アイドル」はいないし、「余計な感情表現が過多な男性アイドル」の姿もない、子ども向けの「ゴジラと対峙する巨大ロボ」もいない。
また昨今は、この手の娯楽大作なら「製作委員会」方式で船頭を多くしてリスクを分散するのが常道。
しかし本作はそうではない。
おそらくテレビ局やタレント事務所などの介入を排除し、総監督・庵野秀明に好き勝手にさせるためだろう。
プロデューサーの英断だと思う。
本作はキャッチコピーの「ニッポン対ゴジラ」の通り、ゴジラに対抗する「集団としての日本人」が描かれる。
対するゴジラは「怪獣王」ではなく、まさに破壊神たる「神(シン)・ゴジラ」だ。
中盤でゴジラが本気を出してくるシーンがある。
そのとんでもない地獄絵図には「もうダメだ……人類は勝てない」と絶望させられた。
おそらく観客の多くが、「ゴジラよ、早く死んでくれ……頼むから死んでくれ」と祈る気持ちになったと思う。
だからこそ後半のメチャクチャな作戦も「イチャモンなんてつけません、とにかくやってください!」というきもちになったし、終盤、ある決死隊が一瞬で全滅するシーンでは人々の顔やその家族の姿を思い浮かべずにはおれなかった。
それも全ては、「自分たちと同じ時代、同じように生活している日本人たち」がゴジラという「国難」に全力で立ち向かうからだ。
自分は、アクション映画というものには「1ヶ所でいいから、他で見かけない新鮮なアイデアがなくてはならない」と思っている。
本作はそれが1ヶ所でなく随所に投入されている。
庵野秀明という「異常な量の引き出しを持つ変態」に、ゴジラという会社の宝を預けた東宝は偉い。
キャストはタイトルロールの野村萬斎含めて329名。
庵野秀明はその豪華キャスト陣にほとんど演技をさせていない。
とにかく早口でしゃべらせて細かくカットを割ることで、全員に演技をするヒマを与えず、邦画俳優にありがちな「上手くない感情表現」を抹殺している。
おかげで物語に集中できた。
(ただし石原さとみだけは、本人がどうすればいいのか悩んで泣いてしまうほど浮いた演技をわざとさせられている)
クレジットによると、庵野秀明は「総監督・脚本・編集・画像設計・音響設計・コンセプトデザイン」、さらに一部の撮影・録音も担当している。
映画を観た人なら、本作が監督1人でいろいろ兼任するような規模の作品でないことがわかるはず。
それなのに1人でやってしまう変態・庵野秀明に全てをまかせ、きっと山のように降ってきたであろう余計な口出しや横やりを全て遮断した本作のプロデューサーはすごい。
そしてこの判断は、東宝にとって大きな賭けだったはず。
コケたらありとあらゆる方角から批判されるのが目に見えているからだ。
しかし完成した『シン・ゴジラ』は間違いなく傑作だった。
控えめに言って傑作。
そんな東宝の度量をたたえ、そして失望させないために『シン・ゴジラ』は大ヒットしてほしい。
初代ゴジラがそうであったように、本作もまたクリエイターをめざす多くの青少年に衝撃を与えるはず。
映画会社の大人たちが、これから先、そんな若者たちに「賭ける」勇気を持ってもらうためにも。
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