なぜ「動物モノ」は感動するのか?

とりあえず「子供」か「動物」を出しておけ。

これは昔から、いわゆるコンテンツ業界でよく聞く言葉です。
人は、映画でも小説でも漫画でも演劇でも、とりあえず感動すれば納得するものです。
喜怒哀楽のいずれかを刺激されないと人は喜びませんが、さらに感動がないと納得しません。

かといってお客さんは何でも感動してくれるわけではない。
脚本に妙な矛盾があればダメだし、演者の力も必要。演出でもずいぶん変わるし、何より「その場の空気」が一番怖い。
そうした中で割と高確率で感動の空気を作り出すのが、子供と動物ということなのでしょう。

ではなぜ、子供や動物を出しておけば何とかなるのか。
その前に考えたいのは、感動の逆(かどうか判らないが)である「恐怖」についてです。

以前私は、「なぜ心霊写真は基本『顔』なのか」といったことを書きました。

つまり扉のすきまに目がある、森の向こうに顔が浮かんでいる、といった状況が怖いのであって、これが「写真の背景に、不意にお尻が」ではあまり怖くないというわけです。

人は相手の表情を見て、その心情を読み取ろうとします。そこに意思があれば「意思疎通」ができるので怖くありません。
しかし相手が「無表情」では、意思疎通ができない気がして恐ろしくなります。
すると心霊写真の顔が怖いのは、「意思がつかめない」から怖いことになる。

確かに大抵の心霊写真は、どれもずどーんとした、どんよりとした、ぼけーっとした表情をしているはずです。
もしくは顔の一部分だったりして、感情の全容がつかめない状態だったり。


■人間だと怖いが、ねこだと別に怖くない。

ところがこれが、満面のナイスな笑みだったらどうでしょう。
あれっ、ちょっと会話が成立するかも、心霊の意見を聞いてみようかな、ということになって恐怖が減退するはずです。
逆に顔に張り付いたような超笑顔だと怖い。
これもやはり、その意思と無関係の笑みだと判るからです。


■人間だったら怖いが……。

別に人でなくても、例えば化け物も怖い。巨大化した昆虫なんかも怖い。
なぜ怖いか。やはり意思が感じられないからです。
その行動が本能によるものだけで、まず理性がない。こちらと意思疎通できないだろうな、という感じがどうにも恐ろしいのです。

最近話題となっている『進撃の巨人』という漫画。
当初なぜあの巨人が怖かったのかというと、人間を食べるからではなかったと思います。
たとえば「ふははははは。おまえら、残さず食ってやるわーっ」と叫びながらやってくる巨人だったらどうでしょうか。
怖いですか。

そうではない。知性が低く、何考えてるのか判らない。ただ食欲という本能に従っているだけの不可思議な存在。

だからあの巨人は怖いのです。
『寄生獣』も人を食べますが、わりと冷静というか、結構話せるやつだったりします。

ですから非常に面白いですが、怖いかと言われると、不気味ではあるがそんなに怖いお話ではありません。

もちろん恐怖には他にもいろんな原因があります。ただ、その中のひとつとして導きたい結論はこうです。
「意思の疎通ができないやつは、怖い」

それでは、先の感動とは? に戻ります。
まず「動物もの」の場合、私たちはどこで感動しているのでしょうか?

動物ものといえば、何はなくとも犬です。
個人的な偏見かも知れませんが、動物で感動させたいなら、犬は外せません。

私の場合、まず思い出すのはこのあたりです。
『南極物語』
『忠犬ハチ公』
『名犬ジョリィ』
『フランダースの犬』

これらの作品に共通するものは、一体何でしょうか。
『南極物語』の場合、タロウとジロウは、世話してくれる人間のいない南極で、半年間の暗黒世界を生き抜き、観測隊員に再会します。

しかし感動ポイントは「生き残った」ことではありません。
南極に帰ってきた隊員が2頭を見つける。そこで「タロウ、ジロウ」と呼びかける。
2頭は隊員の顔を思い出し、駆け寄って抱きつく!
そこが観客の涙腺を破壊するわけです。

「タロウ! ジロウ!」
「ガウーッ、ガウーッ」

では感動できません。
ハチ公もジョリーもパトラッシュも同じです。
彼らはご主人に従い、その存在を守護し、そして慕ってくれます。
ハチ公を、けして「駅周辺の屋台のおやじがエサをくれるから改札口に来ていた」としてはいけません。
ジョリィがもっとよこせと吠えてはいけない。
パトラッシュは、ちょっと寒いからあっち行っていい?ではいけない。

これらの共通ポイントはひとつです。
人と犬のあいだに、本来ありうべくもない意思の疎通があった、と思わせてくれることです。
彼らが「けなげに人のことを思ってくれている」「何かしらの愛を抱いてくれている」と判るとき、幾千万の紅涙をしぼるということになるわけです。