作文とカウンセリングについて

最近、子どもたちの読解力が下がってるという話題がありました。
PISAという学習度テストで、日本の子どもの「読解力」が8位から15位に急落したという話です。

「PISA読解力低下」は子どもたちからのSOS
日本の教育のために大人が気づくべきこと

https://toyokeizai.net/articles/-/321532

ここで言う読解力というのはリーディング・リテラシーのことで、日本の子どもは「文章に込められた質と信憑性を評価する」「矛盾を見つけて対処する」の2項目が特にダメだったようです。
要は文章をロジカルに分析できているか、ということかなと思います。
これを鍛えるのに「何が言いたいのかよく判らない文学作品なんかより、実用書や報道文などロジカルな文章を読むべき」というのは早計です。
なぜなら「小説を読んでいる」子どもの方が高点数を取る傾向があったからです。

で、ここからなんですけど。
中高生の書いてくる文章を読んで添削する仕事をしていたことがあり、直近10年で得た感触として「総じて10代の文章力が落ちている」というものがあります。 
彼らはLINE等による短文コミュニケーションで日々「訓練」しており、活字そのものを読む時間はかなり長いと思います。
そのため「少ない文字数で意思疎通する」といったことには長けています。そのあたりを専門的に研究している人もいるでしょうし、いろいろ意見はおありかと思います。

ただ私が接した限りで言えば、彼らの弱点はほぼ共通していて「仲間内にしか伝わらない文章」を書いてしまうことです。
自分のことを知らない、その文章の背景に何があるかを全く知らない、そんな他人に適度に情報を与えつつ主張を過不足なく表現するのは圧倒的に下手になっています。単に「長い文章が書けない」みたいな問題ではありません。
これはおそらくSNSによる「害」の部分です。

ただし言い方は悪いですが「無難な文章」はすぐに書けます。
しかし無難な文を読むのって、何かしら評価したい、褒めてあげたいと思って読んでいる側からすると苦痛なことこの上ない。

で、ちょっと考えました。
例えば、ある者が「部活でやる気が出ず、レギュラーになれなかった」という文章を書いてきました。
続きを読むと、「友人たちの発奮を見て自分もがんばろうと決意」します。そして「これから何事も精一杯取り組まなければいけないと思いました。」で終わる。そういう文章です。

しかし私はこういう「こんな感じでええんやろ」と言いたげな文が嫌いで、「へえ、『何事も』全力でやろうと思ったんだ? じゃあ今は生活の全てをがんばってるわけ? ほんとに?」と詰めていきます。すると生徒は最初キョトンとし、そして驚きます。
こう書いておけば文句は言われない、と思っていたところを突っ込むなんて何を考えているんだ!?というわけです。

ところがそんな彼を深掘りしていくと、「がんばろうと決意」したのは友人たちの発奮を見たからという単純な話ではなく、入部した頃には自分より下手くそだった(なんなら見下していた)はずの友人がいつのまに自分を追い抜いた苛立ちがあったと分かりました。
しかしこれもまだ定型的です。このくらいではまだ逃がしません(笑)。もっと掘ります。

よくよく聞くと、彼は友人が活躍するのを妨害しようとしていました。
その衝動がなぜ生じるのか、彼自身にも判りませんでした。
しかし視点を変えて考察してみるよう勧めたところ、彼は小学校時代にも同系統のスポーツをしていて、負けたり大会に出場できなかったりすると親に殴られていたそうです。
そのトラウマから「横並びの同学年から自分が残されること」に強い恐怖を覚えていたのでは?と推論します。
しかしスポーツ自体は好き。その相克が「やる気を出して本気になりたくない」という形で現れていたのかもしれない、と彼は結論づけました。

ここから彼は、「なぜあのとき、自分の親はあんなに怒っていたんだろう?」という核心に気づきます。

最終的にこの話は部活でがんばるかどうかというところから離れ、彼自身の家族の問題に分け入っていきました。
これ以上は、彼は元々非公開の条件で文章を書いてくれていましたのでやめておきます。

とにかくここで私が言いたいのは、彼自身が当初気づいていなかった感情を、原稿を書き直す内に少しずつ文章化できたということです。
別にこれが正解というわけではありません。とにかく生徒自身が自分で自分のよく判らない感情に折り合いをつけて形にできたのが良かったと思っています。
10年ほど前は、こういった内省を最初から行って文章を書いてくる生徒が少なからずいました。

しかしここ数年、その数が目に見えて減っています。
 
読解力を鍛えるには論文を読んでトピックを分解し、要約文を書くといった訓練などが良いでしょう。
しかしこのやり方は、これからどんどんAIが支配してくる領域です。
では人間の方が得意なことは何でしょうか。
 
私もよく判りませんが、たとえ自分がよく判っていないことでも「こうなのではないか?」あるいは「こう言ってるけど、実はこうなんじゃないか?」と想像し、欠落を補って問題解決を図ることは人間の方が得意なのかなと。他者へ想像力を働かせ、未知の問題への対処を考えることです。

ただしこの力をより良く行使するには、自分の中にある物差し(価値観など)を知り、同時にその物差しが人それぞれに異なることを知っていなければなりません。
すると「読む」だけでなく、自分を客観視して「書く」ことができればより良い気がします。

従来からある「作文」という学習を深化させれば、上記の「読解力」が身につくだけでなく「他人は自分とこんなに違う考え方をするんだ」「人にはそれぞれ自分に知り得なかった事情があって、みんな精一杯生きているんだ」といったことが知れます。

この理解は、思いやりや優しさといったものにつながります。きっと子どもたちの精神的向上に役立つ気がします。
ただし答えは子供たちが自分で見つけてくれないといけません。
「あー、もどかしい!」とこちらの予想した答えが喉元まで出かかったところで、全く予想外のものが出てきて、えっ?そうなの!?と驚くことも多々。
なので、やっぱりこれは自己カウンセリングの一種なのだろうと思います。