追悼・上村くにこ先生
- 2024.08.19
- 未分類
昨日、私の文章のお師匠宅へ。
そこで初めて、恩師である上村くにこ先生が先月初めに亡くなられていたことを教えられた。
「安藤元雄よりも、阿部良雄の翻訳がいいと思うよ」
1995年3月、阪神・淡路大震災によって校舎が倒壊し、離れた薄暗い語学棟に移された研究室。
大学1年生の終わり、初めて先生と会話したのはボードレール『悪の華』についてだった。
そして上村先生のゼミに入った。
先生の専門はギリシャ神話に出てくる「白鳥」。
ソルボンヌに留学した際、「君は何をやりたいんだ?」と問われて「ギリシャ神話です」と答えたら、「君は馬鹿か。そんな広大な研究できるわけないだろ」と言われ、ではこれ、ならばこれ、とどんどん対象を絞って行き着いたのが「白鳥」なのだった。
ゼミでは、私は自他ともに認める「生意気な奴」だった。
やたら偉そうに上から目線で周囲に接し、ギリシャ神話の研究室なのに河童について論文を書いたりする私を、上村先生はかわいがってくれた。
ゼミでは研究と並行し、学生の文章力低下を嘆いた先生が有志を募り「文章教室」を開いていた。
先生の交友の新聞記者、作家、同人主催者、編集者などを招き、講演会をする。
そして月1回は、ライタースクールを開いていた稲村恵子先生を招いた。
そこでは学生がそれぞれ文章を書き、上村先生と稲村先生に添削されてボコボコにやられた。
大学4年生の就職活動は、前年と打って変わった「就職氷河期」のまっただ中。
世間で急速かつ不自然に「フリーター」がもてはやされ、「自己責任」という言葉が流布した。
唯一内定を得たのは、香川県に本社がある中堅印刷会社の大阪支社で、DTP&CTP担当で働いた。
とはいえ、そこはとてもいい会社だった。
しかし入社2年目の12月、高校時代の友人と忘年会をしたところ、1人がプロの漫画家になっていた。
彼の話を聞いていると、なんだか会社員が嫌になってしまった。
何より、「仕事に飽きた」のが退職の決め手だった。実家を出て1人暮らしを始めたばかりで、貯金はなかった。
それなのに、衝動的に3月で退職。
なんとかなると本気で考えていた。不意に辞めたので、次の仕事は決まっていなかった。
会社を辞めた3月、暇なので「上村先生に報告でもするか」と思い立ち、事前連絡もせず大学へ行った。
ところが研究室は、平日なのに施錠されていた。誰もいない。
在学中、こんなことは一度もなかった。
せっかく来たので学生生協でお茶を買い、ベンチでぼーっとしていた。
すると、目の前を上村先生が通った。私は驚いたが、先生はもっと驚いた様子だった。
聞くと上村先生は1年間のサバティカルで研究室を閉じ、パリにいた。
この日は新年度のゼミ再開に向け、たまたま学校に来たのだった。
「1年空けたら、助手予定だった院生が家庭の事情で実家に帰っちゃったのよ。ヒマなら来る?」
こうして4月から、大学に戻って研究助手となった。
あの日あの時間にベンチでボケーッとしなかったら先生に会えず、1日でも前後すれば、先生は別の研究室から院生をピックアップし、助手の話はなくなっていただろう。
4月からのゼミでは、「文章教室」も復活した。
稲村先生があまりに学生の作品を「真正面から斬る」ので、上村先生はバランスを取るように優しくなっていった。
その中で私は助手だから、お手本として文章を書いた。
お手本とは文章の出来ではなく「みんなの前で叱られるお手本」である。
ただ自分が学生と決定的に違ったのは、学校にお金を払うのではなく、逆に「お金をもらって文章の勉強をさせてもらった」ことだった。
背伸びした中学生みたいだった私の文章力は、少しずつ少しずつ、マシな方向へ叩き直されていった。
そんなある日、上村先生と稲村先生に呼び出され、「本を書ける人を探している」と言われた。
稲村さんとかつての同人仲間で、プロの専業作家として活躍する高嶋哲夫先生からの話だった。
高嶋先生は原研をやめた後、米国留学して帰国すると、学習塾を開いた時期があった。
その頃からの知り合いである受験教育系の出版社より、「教育者の伝記」という企画があるという。
その相手は、啓明学院の尾崎八郎先生。
当時、尾崎先生は女子校だった啓明を共学化し、関西学院大学継続校とする大改革を始めて2年めというタイミングだった。
尾崎先生は、はっきりと企画を嫌がっていた。
そこにノコノコやってきたのは、関学出身でもなく、クリスチャンでもなく、著作を書いたこともない私だった。
「この企画は失敗するだろう。でも中学受験の付き合いもあるし、ここはひとつ、このポケーッとした男を教育してやろう」
そんな風に考えたと推測する。
啓明という学校が変わっていく記録として話しておくのは悪くない、と考えられたのだろう。
それからの半年ほど、私は尾崎先生に引っ張られ、追い回され、静かに諭され、ある時は背後からどつかれして過ごした。
考えの浅いお調子者だった私にとって、人格を大改造される半年間を経て、私の初書籍は無事に完成した。
後で知ったことだが、上村先生は「書ける」と思っていなかったらしい。
上村先生はしばしば自宅で食事を振る舞ってくださった。
ゼミのみんなで集まることもあったし、私1人のこともあった(確かパソコンのセッティングをしたお礼だったと思う)。
とにかくそういう楽しい席で私を十分にリラックスさせた後、先生はこう言った。
「未経験の近藤くんでは厳しいだろうし、泣きついてきたらフォローしよう(一緒に謝ってあげよう)と思ってた」
自分は偉大な人たちに育てられている、と噛みしめたひとときだった。
その後もいろいろあったが、上村先生は2013年に退職し、その後は「死生学」の研究活動を始められた。
例えば、あなたが病に倒れ、好転が見込めない。いわゆる終末期に至って意識不明となる。
生命維持の装置を外せば死ぬ。このとき、あなたは延命治療を望むか?
大抵の人は、意識不明になったのが自分なら「延命拒否」だという。
では自分ではなく、家族が意思表示しないまま意識不明だったらどうするか?
家族が事故などで脳に不可逆的ダメージを受け、意識はもう戻らない。
駆けつけたあなたに、救急救命の方から説明がある。
「人工呼吸器を挿管すれば延命できます。ただ何年もそのままでしょう。10分待ちますから、あなたが判断してください」
これにどう答えるのか?
またあるときは「仏陀やキリストのAIを作り、彼らの死後から現在までの歴史を学ばせたら、彼らはどんな答えをおっしゃられるか?」
またあるときは霊長類の専門家を招き、イラクで出土したネアンデルタール人の遺骨の話など。
それは50才という長寿で、おそらく若い時分の落石事故で片手・片目を失い、歩行に難があり、重度難聴の痕跡もあった。これはつまり、明らかに狩りができない者も集団内で生きる道があったことを示す。どんな生活だったろう?
かように多様な話題をディスカッションする集まりだった。
行き着く主題は、いかにすれば「よく生き、よく死ぬ」ことができるか、それぞれに考える、ということだったと思う。
上村先生と最後に会って雑談したのは2019年のことだった。
年賀状は毎年出していたが、先生が送ってくださる絵入りの手作り賀状は2021年を最後に途絶えていた。
コロナにかまけ、忙しさにかまけ、連絡していなかった。
最期は自分で諸事準備し、ご自宅で亡くなられたと聞いた。
家に戻り、夜が深まり、そして朝となり、心が苦しい。
会っておけばよかった。
あのとき、いきなりボードレールについて語り出した生意気で痛々しかった私を、ニコニコ笑って受け入れてくださった。
今、自分がライターとして生活できている、その全ての始まりは上村先生だった。
ありがとうございました。どうかやすらかに。
-
前の記事
「日本情報クリエイト30年の歩み」完成しました 2024.08.06
-
次の記事
闘病記の森 2024.08.29