ドブスを守る会について
まとめ
http://wiki.livedoor.jp/dobusdefendcommittee/
http://www26.atwiki.jp/2424242/pages/1.html
思うに、彼らのもっとも卑劣な部分というのは、「これを事件化することの難しさ」にある。
彼らを訴えて事件化するには、当然被害者が出てこなくてはならない。
しかしそのためには、動画をモザイクなしにして呼びかけるしかない。
つまりこれはレイプ被害に似たものがある。
論理を飛ばせば、彼らは単なるレイプ動画をもって「芸術作品」と呼んだに等しい。
写真や映像などというものは、対象を「美しくないように」撮るのに何の技術もいらない。
逆に「美しく撮る」にはセンスや技術が必要だろう。
彼らがその被写体と世間との間に、何らかの「発見されてこなかった何か」を見つけて、それを表現として昇華できたのであれば、それは芸術と呼んでもかまわない。
しかし単なる「悪意」を「芸術」とは言わない。単なる「嘲笑」を「芸術」と呼んではならない。
つまり彼らの行為には、芸術として擁護するための価値すらない。
多くの人間がこれに対して義憤を感じるはずである。
まず被害者がなんら非難されるいわれもないのに執拗に攻撃され、しかもその顛末を無許可に公衆に晒されている。
容姿というものは、努力をしても限界はある。
その弱点を笑いものにしようということの、一体どこがアートだというのか。
野蛮人の国ではどうなっているのか知らないが、現代の文明国という場所では、「いわれもなく、どうにもならないことを馬鹿にする」行為は卑劣だとされている。
卑劣はただの卑劣でしかない。
首都大学東京については、おそらく世間の誰もが大学の謝罪など望んでいない。
京都教育大学での集団レイプ事件の時もそうだが、一体何のために大学が謝罪をするのであろうか。
大学がなすべきは「処分」である。はっきり言えば「放校処分」だ。
その咎を受けるべきは加害者当人でしかない。
ならば大学は、彼らを処分する以外に選択できることはない。