「乱神」の時代

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来週12月11日、幻冬舎より高嶋哲夫『乱神』が発売されます。
おおよその歴史考証をしました。
世界最強の帝国「元」の大軍勢がせまりくる鎌倉時代の日本を舞台に、あっと驚くような「戦士たち」が奮い立ち、御家人を率いて戦う物語です。

私は歴史上、異なる文化が出会う場所というのが好きで、第一世界大戦が好きなのもそこに理由があります。
元寇もそのひとつで、ステンドグラスやサウナといった遠い西洋文化の文物までそなえた大宮殿に住む、元朝皇帝フビライ。
後にそこへは、ヴェネチアからマルコ・ポーロたちもやってきます。

西洋では、キリスト教とイスラム教が激突しています。

そして日本。
元軍が襲来するのは博多近辺で、当時の博多は交易さかんな国際都市でした。
当時の博多住人の中心にいたのは、通事や船頭などを務める唐人です。

これ以前、禅を日本にもたらした栄西は二度目の入宋をへて帰国し、建久六年(1195)、博多に本邦初の禅寺である聖福寺を創建しました。
聖福寺の寺域は宋人百堂と呼ばれた地で、つまりそこには宋人の建てたお堂が100あったことを意味しています。
この聖福寺創建を援助したのが、博多津の張国安ら張一族といわれます。

博多一帯には「張」姓の宋人たちが多く住んでいました。
当時、大陸側の通称窓口となったのは明州(寧波)です。
『乾道四明図経』によると、

「南は則ち閭・広、東は則ち倭人、北は則ち高句麗、商船往来し、物貨豊衍す」。

乾道四明図経

『文献通考』や『宋史』を見ても、このあたりから倭人の渡航が盛んになっています。
倭人は博多津よりやってきており、逆に博多浜一帯は、「大唐街」と呼ばれる外国人居留地が広がっていました。さらに博多には、畿内近国の産物も瀬戸内海を経て運ばれてきます。

こうした産物の輸送を統括する組織は、「博多綱首」と呼ばれました。
綱首とは中国人の船頭のこと。
彼らは博多を拠点に商業活動を活発にし、巨万の富を築いたのでした。

そういう背景が、「元寇」のあった頃の日本にはあったんです。

博多の港では日本人だけでなく様々な言語がいりみだれ、身分の別なく大いににぎわっている。そこへある日、水平線を埋め尽くす大船団がやってくる……。どうです、わくわくしてきませんか?