松下幸之助と徳川家康の話

NO IMAGE

NHK大河が桜田門外の変に至り、その感想をまだまだ見かけるので、その連想から。

大阪・四天王寺には、変で亡くなった水戸藩士の墓があります。
ここへ水戸藩家老の子孫・三木啓次郎さんという方が墓参りに来るのですが、境内にトタン板を敷いて不思議な電気製品を売る男がいました。
よく見ると、ショバ代を払えと地元のヤクザにからまれている。
男の名は松下幸之助。このとき22才。

ここから少し話をさかのぼります。
日光にあるのは、日光東照宮。ちょっと変な名前だと気づきますか?
鹿児島に「薩摩富士」、札幌に「蝦夷富士」がある。
それに対して、本物の富士山を「東海富士」とか言わないでしょう?

なぜ「東照宮」ではなく「日光東照宮」なのか?
東照宮は他にも静岡の「久能山東照宮」、和歌山の「紀州東照宮」など。
すると分かるのは「日光東照宮」とは、「あの東照宮が日光にも!」という意味だということ。
地名がつくのは、オリジナルではないと示しているわけです。

では、オリジナルの東照宮はどこにあるのか?
大阪夏の陣では真田幸村が家康本陣に突入し、家康たちは総崩れになって潰走に追い込まれました。
で、籠に乗って逃げたところ、家康は後藤又兵衛の槍に突かれて死んでしまいます。
このとき又兵衛が辺りの家来に叫んだのが「人違いだ、散れ!」

以下、堺『南宗寺史』抜粋。
「主君の安否如何にと従う武士の面々が恐る恐る籠の扉を開けてみると、家康はすでにこと切れており、なにぶん戦時中なのですべてを機密にして、遺骸を南宗寺の開山堂というお堂があったが、その下に隠し、徳川の世になってからこれを久能山に改葬したことにして、さらに日光山へ持っていった」

ただし記録によれば、家康殺害は5月7日。ところが後藤又兵衛の死亡は5月6日。
さらには、又兵衛が対峙したのは家康本隊ではなく松平忠輝隊(本田忠政、伊達政宗)だったという記述もある。
それらとは別に「後藤又兵衛生存説」もある。
というのも当時写真なんてなく、ほとんどは戦場の遠目で「あの馬上で○○色の鎧を着とるのが又兵衛だ」「あれかあ」という程度。
すると顔なんて知らないので、関係ない死体に又兵衛の鎧なりを着せれば「又兵衛の遺体」となってしまうこともある。
これが家康となれば、さらに顔を知る人は限られる。
ここに「影武者徳川家康」が成立する余地がある。
又兵衛の「人違い」発言も、何やらドラマチックな裏側を想像させます。

で、亡くなった家康の遺体はひとまず隠されます。
当時、南宗寺は現在と全く違う場所にありました。
現在の場所に移るのは夏の陣から4年後、1619年。
つまりは「家康終焉の地」に南宗寺をわざわざ移転させたことになります。

さて、先に日光東照宮の話をしましたが、オリジナルの「東照宮」はどこにあるのか?
答えは南宗寺。
ただしこの東照宮は、太平洋戦争で焼失しました。唯一焼け残った唐門は「南宗寺唐門」として国の重要文化財となっております。
この唐門の瓦をよく見ると、なんと徳川家の三つ葉葵。
もちろん勝手に使ってはいけません。徳川家が許したということ。

現在、南宗寺に行くと無名の怪しい墓があり、そこにはなんと「無銘ノ塔 家康サン諾ス 観自在」と書いてあります。
書いたのは幕臣・山岡鉄舟。
徳川慶喜が書こうとしたのを山岡が止めたと言われます。
「南宗寺は家康大権現の最期の地だが、それを徳川家が公式に認めてはいけない」ということでしょう。

次に家康の影武者について。
家康が亡くなったため、急きょ影武者をつとめたのが小笠原宗家初代・小笠原秀政。
夏の陣では、秀政公の長男が既に戦死、次男は重体となっていました。

ところが秀政が家康の影武者としててんやわんやの中で、次男・忠真が意識を取り戻してしまいます。
「え、なんで親父が家康なの?」
これは一大事。
忠真は急きょ、信濃松本八万石から小倉十五万石へ加増して転封、口を閉じていただくこととなった。
ちなみに、忠真が小倉へ連れた部下のひとりが宮本武蔵です。

で、南宗寺に戻ります。
ここの坐雲亭に、征夷大将軍徳川秀忠と、その子・家光が訪問したと記録があります。
この2人、わざわざ40日ほど空けて別々に来ています。
まず秀忠が「将軍位を家光に譲ります」とご報告。なぜ南宗寺に?
その40日後、家光が「将軍になりました」とご報告。なぜ南宗寺に?

征夷大将軍の2代3代が江戸から来るなんて、とんでもない騒動です。費用も半端ではない。
この頃、既に幕府は緊縮財政に入っています。それがなぜ行程を分ける大浪費をしたのか?
さらに幕府は、南宗寺に対して朱印状も下しています。
朱印状とは何かを認可するのに出すものですが、南宗寺に出されたのは白紙の朱印状。
これは白紙小切手と同じで、何を書いてもよいということ。
そして三葉葵の使用許可。
ここまで特別扱いしたのは「本家本元の東照宮があるから」と思えば理解できる。

で、昭和42年。この南宗寺に新しい家康の墓がつくられます。
建てたのは松下幸之助、当時の堺市長・河盛安之介、労働大臣・塚原俊郎、茨城県知事・岩上二郎、そして水戸家家老の子孫・三木啓次郎。やっと出てきた(笑)。

水戸藩家老職・三木家の初代は、三木仁兵衛。
なぜ家老になったかと言うと、仁兵衛は水戸家の御落胤を養子にしたのですが、後に水戸家に世継ぎがなくなって断絶という時、その御落胤が唯一残った直系男子とのことで殿様になりました。
その名を水戸光圀という。いわゆる黄門さまです。
この光圀が、恩義ある仁兵衛を初代家老にしました。その子孫が三木啓次郎さん。

で、最初に戻る。
松下さんが四天王寺の境内で露店を開いた。売っていたのは二股ソケット。
そこへ三木さんが通りがかる。

ショバ代を払え払えないと、からまれる松下青年。
三木さんは青年を救いだして「この売り物はなんだ?」。
松下さんは一生懸命、二股ソケットの素晴らしさを説明し「作れば作るだけ売れるのに、作る資金がない」。
話を理解した三木さんは、自分の家土地を担保にした全額を「これで作れ」と松下さんに渡したのです。

松下さんはこの資金で、松下電器を創業しました。
そんな松下さんは、後に三木さんを松下電器の終身顧問とし、借りた金も返します。
あまりに大きな成功を背景に、松下さんは大恩ある三木さんに払う利息をどうしたものかと悩みます。
すると三木さんは「おまえは金の使い方を知らんのだな」と言う。

さてどうしたか。
利息分のお金は、浅草寺雷門・四天王寺極楽門に変わりました。
だから門には「松下幸之助寄進」と書いてある。これで三木さんはご満足されたと。

以上、本日のウォーミングアップ終了。真偽は不明!