日清食品・安藤百福氏の人生は面白い

日清食品・安藤百福氏の人生は面白い

10月1日からのNHK朝の連続ドラマは『まんぷく』。
インスタントラーメンをこの世に生み出した実業家・安藤百福氏と妻・仁子氏の半生をモデルに、戦前から高度経済成長時代にかけての大阪で懸命に生き抜く夫婦の成功物語、とのこと。高齢者にはノスタルジー、若い人には不屈の精神を伝える良い企画だと思います。
http://www6.nhk.or.jp/nhkpr/tag/index.html?i=12332

で、この日清食品の安藤百福さんの人生はめちゃくちゃ面白い。


あんまり面白いので、以前、個人的に年表を作った(Wikipediaは結構間違いが多かった)。45日間に及ぶ拷問、無一文からの奇跡の復活、全国問屋のカップラーメン拒絶など、ドラマチックなエピソード満載。

ただ高杉良『燃ゆるとき』では悪者として描かれており、いろいろあるんだとは思います。ですので以下、カップラーメン大ヒットまで。全て本人の発言などソースのあるもののみで構成してます。

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安藤百福は台湾・台南生まれ。幼少の頃に両親を亡くし、繊維問屋を営む祖父母の家で育った。
1930(昭和5)年、20才で図書館司書となる。
1932年、父の遺産を元に、メリヤス販売「東洋莫大小(メリヤス)」を創業して大当たり。
1933年、大阪に進出して「日東商会」設立。これからの時代は学歴がないと肩身が狭いと考え、立命館大学専門部経済科の夜間部に入学。翌年、24才で卒業。
 
第二次大戦が始まると繊維貿易が難しくなり、軍用機用エンジン部品、バラック住宅製造、炭焼き、養蚕など次々に事業を起こす。
途中、エンジン工場で部下の物資横流しを告発したところ、犯人が憲兵とつながっていて濡れ衣を着せられ、45日間にわたって拘束・拷問。その際、留置場の食事がひどいため絶食。手をつけない自分の食事を奪い合う同房者たちの姿を見て「食こそが最も崇高なもの」と感じる。
 
1945年、終戦。かねてより知己を得ていた久原房之助(久原財閥の総帥)から「こういう混乱期には不動産を買っておくものだ」とアドバイスされ、大阪・心斎橋、梅田などの土地を破格値で購入する。
1946年、大阪・泉大津に転居。そこで20万平方メートルの旧造兵廠が放置されているのを見て、管轄の大阪鉄道局と交渉。建物と私財の払い下げと、土地の無償貸与を受けた。
運輸省鉄道総局長官の佐藤栄作(後に首相)との会話で、引き揚げ者の職の確保が必要という話になり、見よう見まねで製塩業を開始。沖合でイワシ漁も行う。同じく佐藤から「中国の民生の安定のため、将来技術協力できる人材を養成しては」と言われ、名古屋で若者に自動車製造・修理や鉄道建設などを教える「中華交通技術専門学院」を設立。食事付きの全寮制で授業料無料とした。トヨタから部品を無償提供してもらい、講師は名古屋大学から派遣してもらった。
 
1948年、泉大津で「中交総社」設立。翌年「サンシー殖産」に社名変更し、大阪・曾根崎に移転。
この頃「復興は食から」という思いから、泉大津で栄養食品の開発「国民栄養科学研究所」を設立。最初に開発したのは牛豚の骨からエキスを抽出したペーストで、「ビセイクル」を名付けて病院などに供給した。しかし同年クリスマスの夜、安藤は脱税容疑でGHQに拘束される。若者たちに好意で支給した奨学金を所得と見なされたためだった。拘束から1週間で4年の重労働を言い渡され、全財産を没収されて巣鴨プリズン(現・東京拘置所)に収監。
安藤は京大法学部長・黒田覚に弁護団を結成してもらい、処分取り消しの提訴を行う。すると旗色の悪いことを知った税務当局が、釈放と引き換えに訴えの取り下げを要請。しかし安藤は要請を拒絶し、2年にわたって訴訟を継続した後、ついに取り下げて即時放免された。
 
資産を処分して振り出しに戻った安藤は「名前だけ」と言われ、大阪で新設された信用組合の理事長となる。
1957年、組合が取り付け騒ぎを起こして破綻。安藤は社会的責任を問われ、大阪・池田の借家を残して無一文となる(後に安藤は、この経験がもとで無借金経営を貫く)。
 
池田に戻った安藤は、かつて梅田駅裏で寒風に震えながら屋台に並ぶ長い行列に「一杯のラーメンのために、人々はこんなにも努力するものか」と感じたことから、即席麺の開発を着想。
馴染みの大工に小屋を作ってもらって「研究所」と名付け、中古の製麺機などを購入して1年間1人でひたすら研究の日々を送る。麺にあらかじめスープがしみこんだ「着味麺」の製造法に苦慮したが、妻が揚げるテンプラを見て油熱による乾燥法を思いつく。また揚げたことで長期保存も可能となった。スープの味は、世界中の誰もが食べ、宗教的禁忌などのないチキン味とした。

1958年、家族総出で「チキンラーメン」の試作品を製造、高い評価を得る。また貿易会社の知人に頼んでサンプルをアメリカに送付。すぐに500ケース注文があり、国内より先に海外輸出の目処が立つ。
この年6月、大阪・梅田の阪急百貨店で試食販売を開始。
夏に大阪・東淀川の倉庫を借りて工場に改装、テストプラントとして生産開始。しかしうどん玉6円、乾麺25円の時台に35円という価格設定、さらに手形決済が常識だったところへ「これは米と同じ主食となる商品。米を掛け売りはしない」と現金決済を主張して食品問屋に猛反発される。なんとか押し込んだところ、小売店からの注文が殺到。現金先納で予約する問屋まで出てくる大ヒット商品となる。
 
同年、「日々、清らかに豊かな味をつくる」という願いを込めて「日清食品株式会社」に社名変更。
またこの頃、三菱商事より販売委託の依頼が来る。日清食品からは手形払いで三菱商事からは現金払いという取引条件を飲んでもらう。続いて東京食品(現・東食)、伊藤忠商事とも同等の契約を結んで3社を特約代理店とし、特約卸店が全国3000店に達する。
 
1959年、大阪・高槻に新工場を建設。商品待ちのトラックが工場を一周して国道まで伸び、1ヶ月の売上で用地購入代金を賄えるほど繁盛した。
またチキンラーメンを食べると精が付くと評判になり、日本人の栄養状態が良くない時代もあって厚生省(現・厚生労働省)が「妊産婦の健康食品」と推奨、
1960年「特殊栄養食品」認可。この年、味の素会長・鈴木三郎助が工場を訪問。このときから味の素との信頼関係を築く。
 
しかしこの頃には悪質な類似商品が氾濫、安藤が各社を不正競争防止法で提訴したところ、13社が「チキンラーメンは普通名詞」として「全国チキンラーメン協会」を組織。1961年の商標登録確定まで争いが続いた。この頃、即席ラーメンの消費量は1年で1億5000万食、製造メーカー100社超に達していた。
 
1962年、即席ラーメンに関する2つの特許が確定、113社に警告通知。以後、60社以上と即席ラーメン特許の使用許諾を交わす。しかし異なる製法の主張や協会の乱立により、食糧庁が「業界の協調体制の確立」を勧告。
1964年、安藤のとりまとめで「社団法人日本ラーメン工業協会(現・日本即席食品工業協会)」を設立した。
1965年、多くの偽造事件などで品質問題が起こったため、当時は食品衛生法による制度化以前だったが、日清食品の全製品に製造年月日を表示。
 
1966年、安藤が初の欧米視察。このとき、現地バイヤーが紙コップにチキンラーメンを割り入れて食べるのを見て「カップヌードル」を着想。
1970年、日本の即席麺市場は年間36億食に達する。味の素社長・鈴木恭二と会話し「アメリカで現地生産しないのか」と聞かれ、「生産はできるが販売ルートがない」と答えたところ、その場で味の素のルートを使った販売が決定。三菱商事から「当社も」と頼まれ、その日の内に3社合弁「アメリカ日清」を設立。
 
この頃から「カップヌードル」の開発を開始。しかし容器を一体成形できるメーカーが国内になく、米ダート社と合弁で「日清ダート(現・日清化成)」設立。米FDA(食品医薬品局)の安全基準を上回る容器を完成させる。また米国出張の帰りの飛行機で見たマカデミアンナッツの上ぶたから、熱溶着による密封というアイデアを得る。さらに輸送中に麺が壊れることを防ぐため、麺を容器の中間に固定しようとするも製造工程でうまく麺と具材が容器におさまらない。そこで伏せた麺の上から容器をかぶせるというアイデアで克服し、これを「中間保持」として実用新案登録。
 
1971年、「カップヌードル」発売。しかし問屋から注文がなくどこにも商品が卸されなかった。安藤は新たな販売ルート開拓のため、百貨店、遊園地、官公庁、パチンコ店、旅館などを回る営業チームを組む。最初に売れたのは自衛隊の朝霞演習場だった。
11月、銀座・三越前で試食販売し、1日で2万食を売る。それでも小売店からは無視され、新たに給湯設備のついた専用自販機を開発。第1号を東京・大手町の日経新聞東京本社に置く。翌年には全国2万台設置するに至り、徐々に小売店からの注文も入るようになる。
 
1972年、連合赤軍による浅間山荘事件発生。機動隊員がカップヌードルを食べる様子が繰り返しテレビ報道され、現地報道陣から一斉に注文が入ったことも新聞記事となる。ここからカップヌードル人気に火が点き、大ブームを起こす。