黄金のアフガニスタン展

黄金のアフガニスタン展

先日「黒田清輝展」に行ったときに予告されていた「黄金のアフガニスタン」が気になりすぎ、今回ダッシュで上野の国立博物館に走って大急ぎで見てきました。
結論から言うと、これはもうたまらん。最初から最後まで目をウルウルさせ、鼻をすすりながらの観賞。俺だけか。そんなことはないでしょう。

というのも、アフガニスタンの文化遺産というと、2001年にタリバンによるバーミヤン石仏の爆破がありました。歴史や文化というもの、今の自分たちを形作ってきたもの、「人」とは何なのかという想いに一切の敬意を払わない暴力集団による蛮行。
このとき国立博物館は蹂躙され、膨大な数の文化財が破壊され、強奪されました。

1979年の反国王クーデターで始まったアフガン内戦ですが、ブレジネフのソ連軍ですら文化財には手を触れなかった。
それは教養があったからです。タリバンには教養がない。教養がないから「こんなことをしたら家族に面目が立たない、故郷に顔向けできない、何より自らの魂がそれを許さない」という畏れを抱くことがない。

そんなタリバンの手が及ぶ直前、博物館職員たちは命がけで最重要の収蔵品を運び出して隠します。
しかしそこに黄金製の宝物があることを知っているタリバンは、彼らを捕らえ、在処を白状するよう尋問します。
どうにか持ち出した収蔵品だけでも数百点におよび、かかわった職員は1人や2人ではありません。しかし、その全員がタリバンによる拷問に口を割らず、14年間にわたって存在の一切を秘匿しつづけるのです。

「自らの文化が生き続ける限り、その国は生きながらえる」
(当時の博物館長の言葉)

人々の叡智の積み重ねを安易に壊し、現実の営みを無視する原理主義に染まったタリバンを前に、死の恐怖を越えて決然と抗った彼らの覚悟を想うと、もうそれだけでアカンのです。
ましてやその収蔵品は、古くは紀元前7000年というあまりにも遠く貴重な人類の記憶です。

デルフォイの神託にいわく、
「幼きは行儀をよくし、若きは自制を知り、壮年は正義をなし、老年はよき助言者たれ。さらば悔いなき死を得ん」。

彼らはまさに命の危険を受け入れ、正義をなした。
今自らが壮年にあって、これで感動するなというのは無理。
なぜ俺だけが泣いているのか。俺がおかしいのだろうか。たぶんみんな我慢してたんでしょう。

展示の説明もしておくと、アフガニスタンは古来「文明の十字路」と呼ばれ、シルクロードの重要な拠点でした。
国立博物館の説明によると、「メソポタミア文明とインダス文明の中継地として、また錫やラピスラズリの供給地として各地とつながっていた。紀元前4世紀アレクサンドロス大王による東方遠征の結果、アフガニスタンはギリシア世界の一部となりました。その後、東方からは絶えず遊牧民族が到来し、南方からはインドの品々とともに仏教が浸透しました」とある。

補足しておくと、アフガンは地形が独特で、西のへラートと東のカンダハルという2つの目がある。
へラートから西へペルシャ方向、カンダハルから南東へインド方向に拓けていて、それ以外の多くは砂漠か山脈に阻まれています。そしてヘラートとカンダハルには相当の距離がある。つまりペルシャとインドが手を結ばない限り、全域を制圧するのがきわめて困難な土地なんですね。それゆえにどの民族にも独占されず、文化のるつぼとなったのでしょう。そのため20世紀初めには、英露による「グレートゲーム」の舞台ともなりました。

あと、宝飾品にしても、ガラスコップや陶器などにしても、現代に充分通用するモダンなデザインでびっくりします。
他にも、ティリヤ・テペ6号墓から出土した「王妃の冠」が、奈良の藤ノ木古墳から出た冠と同じ様式とか。つまり時代という時間軸においても、物理的な距離においても、人と人は確実につながっているのだと。
展示は6月19日までだそうです。