震災での記憶
理由、それは「全員に平等に配ることができないから」
かつて阪神・淡路大震災で、僕も発生の1月から3月上旬まで避難所で寝泊まりしボランティアをしていた。
当初は「誰それが運動場に勝手に穴を掘って不燃ゴミを埋めている」だの「断水したトイレに排泄物が山盛りになっている」「避難所に隣接した私有地に避難民が入り込んでいる」だのといったトラブルはあったが、少しずつ落ち着いて、それなりに秩序だった毎日に変わっていった。
その頃に直面したのが、支援物資の分配であった。
そこでは、ある50代くらいの男性が暗黙の内にリーダーをつとめていて、分配についてはほぼ全権を握っていた。
神戸市からもひとり派遣されてきた人がいたが、この方はリーダーに部屋をあてがわれ、一日ラジオで情報収集しているだけの様子だった(少なくとも僕にはそう見えた)。
支援物資は、もとより避難民の数だけやってくるなどありえない。
とにかく多かったのは古着、そしてインスタント食品だった。特にインスタント味噌汁は日に日にたまり、倉庫の天井付近まで積み上がっていた。
しかし大量の古着も味噌汁も、避難所が解散する時まで、ついに一度たりとも分配されなかったと記憶している。
最初は「避難民の数だけ揃ってないから」ということだった。
次に「種類が揃ってないから不平等になる」と言われた。
このとき、医薬品その他雑多な生活品は、避難所の出入口にならべて「必要な方はご自由に」としていたのである。
当然それらの数も種類も揃っていなかったが、大きなトラブルは起きていなかった。
衣服は、急に高級なコート(古着だが)が混じっていたりしたから、まだ分からないでもなかった。
しかし味噌汁も???
ということで「味噌汁は配りましょう」と何人もが進言した。
ところがついには「今全て配ってしまったら、また地震が起きたときに非常食が尽きてしまうからダメだ」と言われた。
今になれば、あんなの勝手に配ってしまえばよかった。
でも当時は「リーダー」の言うがまま、そんなものかと考えていた。
だからリンクの先の方がされた判断はすごいと思うし、当時それができなかった自分を情けなくも思う。
-
前の記事
タイフーンショット 2021.05.15
-
次の記事
誰かの役に立つかもしれない電子出版メモ 2021.05.21