隣国を「こらしめる」外交は有効なのか 〜外交の失敗による開戦へ〜
内閣改造だそうです。
内閣改造 ほぼ出そろう… 安倍政権“総仕上げ”顔ぶれ
https://www.fnn.jp/posts/00423801CX/201909101816_CX_CX
さて、パリ旅行については一休み。
ここのところ、マスメディアは韓国の話でもちきりです。要するに「俺たちは韓国に怒ってるんだぞ」ということなのかなと思います。
ただ私個人としては、現在の日本外交は「何が正しいのか分からない」という心境ではあります。
外交というものは常に友好関係をつくろえばよいとは限らず、時には「日本とケンカしたら大変なことになる」と思わせる迫力も大切です。しかしそこには諸刃の刃があり、とても繊細な先読みと豪胆さが必要ともなります。
そこで以下、私たちの現在と置き換えて考えられる話だと思って書いておきます。
セルビアをこらしめようとしたオーストリア帝国外交
1914年、セルビア王国を訪問していたオーストリア皇太子が暗殺される、いわゆる「サラエボ事件」が発生します。当然ながらオーストリア世論は激昂しました。
当時のオーストリアは今の小さな領土と異なり、「オーストリア=ハンガリー二重帝国」という大国です。
(なぜ「二重帝国」かというと、オーストリア皇帝がハンガリー国王を兼任する体制だったため)
その宰相はベルヒトルトという男でした。
彼は世論に呼応し、セルビアに強烈な要求を突きつけます。その一つは、オーストリア警察がセルビア国内で捜査活動することを認めよ、というものでした。
なぜかというと、皇太子暗殺犯が所属したテログループ「黒手組」の総帥はセルビア軍情報部のトップであり、他にもセルビア政府の軍・警察高官がゴロゴロいる状態だったからです。
ただし当時はまだ疑惑にすぎません。しかし疑惑を抱くオーストリアからすれば、セルビアが真面目に捜査するはずがないと考えるのは自然です。
しかし外国警察が首を突っ込むなど、内政干渉に他なりません。セルビア政府にはこの建前がありますから、当然ながら要求を拒絶しました。
ベルヒトルトはさらに「最後通牒」を発します。これで要求を呑まないなら開戦だというわけです。セルビアは条件付きで通牒を受諾しました。
しかしベルヒトルトはオーストリア皇帝フランツ・ヨゼフに虚偽の報告を行って一方的に断交、一挙に軍の動員・宣戦布告へと進みました。
このときのベルヒトルトの思惑はこうです。まずセルビアの背後にいるロシアは事態に介入しない。
なぜならオーストリアの背後にもまたドイツがいます。ドイツは同盟国で起きた「王族殺し」に憤激し、オーストリアの全面支持表明という、いわゆる「白紙小切手」を与えていました。
ロシアはドイツの圧力を感じて動けないはず。
そこでオーストリアは間隙を縫って小さな局地戦を起こし、セルビアをこらしめる。
当時オーストリア帝国は、ハンガリー国民が多すぎることによる選挙権問題に悩まされており、セルビアと戦争しても併合する気などありません。
(このあたり、日本が日中戦争で掲げた「暴支膺懲(中国をこらしめる)」にちょっと似てますね)
拙速に見えるオーストリアの動きは、各国に動く暇を与えず事態を最小限に抑えるという、彼なりの「策」でした。
周辺大国の思惑
しかしロシアからすれば、子分であるセルビアが追い込まれているのですから、オーストリアの行動を黙認できません。
そこで本気でないにせよ、オーストリア方面に向けて軍を集めることにしました。つまり「脅し」です。
これを決めたのは当時のロシア皇帝ニコライ2世で、彼には為政者として致命的な欠点がありました。
それは悪い意味で「人が良すぎる」こと。
最後通牒の情報がロシアに入ったのは深夜で、ニコライ2世はスタッフを叩き起こすことを躊躇します。
ひとりで悩みながらドイツ皇帝ヴィルヘルム2世に「私はロシア軍を動かすが、ドイツ向けではない」と電報を送りました。
ところがこのときヴィルヘルム2世はベルリンにおらず、ポツダムの宮殿にいました。電報をいちいち伝書箱に入れて車で輸送するので時間がかかります。さらにドイツ首相は海外訪問中で船の上におり、連絡が取れません。
ここでヴィルヘルム2世も悩みます。
ロシアは真実を語っているだろうか?
実はウソをついて軍をドイツに向けていたら?
ここでドイツ参謀本部が長年温めてきた「シュリーフェン計画」が頭をもたげます。
この頃、ドイツは東にロシア、西にフランスが隣接していました(まだポーランドは独立していない)。
そしてロシアは、ドイツにとって不倶戴天の敵であるフランスと軍事同盟を結んでいます。もしロシアが動き出せば、自動的にフランスもドイツを攻撃するでしょう。
そうなればドイツは東西挟み撃ちにされ、ひとたまりもありません。
そこでドイツが作ったのがシュリーフェン計画でした。
これはドイツのほぼ全軍を西に全力疾走させてパリを包囲殲滅し、返す刀で東に向かってロシアを撃つというもの。
なぜドイツにそれが可能かというと、ロシアは広すぎて兵力を動員するのに時間がかかるはずだという読みがあったからです。なのでロシアが手間どる間にすばやくフランスを撃つ。その後ロシアをゆっくり料理する。そういう計画でした。
ただ、この計画にはとんでもない欠陥があります。
それはフランス打倒に時間をかければ、背後のロシアに丸腰でやられるということ。
これを解決するには、ドイツはすぐに動き出さなければなりません。そこに話し合いや交渉をしている暇などないのです。
つまりロシアかフランスが少しでも軍を動かせば、実際にドイツを攻撃するかどうかなど関係なく、あらゆる外交進捗を無視して開戦せざるをえない、というのが計画の最大の欠陥でした。
ニコライ2世もきちんとスタッフを招集して議論をしていれば、別の動きがあったかもしれません。
しかし彼の判断はドイツの戦争システムを自動起動させることとなり、ドイツ軍はロシアではなくフランスに向かって突撃を開始します。
(これまた、西の大陸問題を解決すべく、真反対である東の真珠湾を攻撃した日本と似ています。共通するのは、「俺たちが開戦したのはおまえたちのせいだ」という態度です。ニコライ2世の判断は結果的にミスではありましたが、これをもって開戦したのをロシアのせいにするのは間違いです。この場合、開戦責任は全面的にドイツにあります)
ドイツの先制攻撃によって、フランスを助けるべくイギリスも参戦するなど各国の同盟関係がドミノ倒しとなり、あっというまにヨーロッパ中を巻き込む大戦争が始まりました。
これが欧州大戦、後に言う第一次世界大戦勃発の(私なりに理解している)経緯です。
こちらもご参考に。→第一次大戦はなぜ起こったか。
こらしめるはずが、帝国崩壊へ
オーストリアは分離和平を模索しますが、失敗。その後帝政は崩壊します。
ベルヒトルトのやったことは、結果的に帝国を消滅へと追い込みました。
おそらく彼はただセルビアをこらしめたかっただけで、こんな事態になるとは想定しなかったでしょう。
しかしオーストリアはドイツと同盟を結んでいるのですから、シュリーフェン計画の詳細は知らなくても、ドイツ軍の動きはある程度つかめていたはずです。
(そもそもこの時代、兵力動員の主な手段は列車なので、主要駅のホームに立っていれば軍が東西どちらに向かっているかなんて簡単に把握できた)
その発動を察知したなら、オーストリアは「やめる勇気」を発揮しなければなりませんでした。
これまでオーストリアには有能な外交官が数多くいました。
代表格はウィーン会議を制したメッテルニヒでしょう。しかしベルヒトルトはこれ以前、第一次・第二次バルカン戦争で動揺し、失態をさらしてきました。
皇太子暗殺という非常事態に接し、そしてまた偉大なる先達を前に、リスクを冒す勇気を発揮しようという気負いがあったのかもしれません。
現代社会における現実的な平和維持とは、相手に侮られないだけの迫力を備えつつ、各国との協調を貫徹したものでなければならず、二国間だけで事態を推移させることはできません。
必要なのは事態を正しく誘導することでしょうし、安易に「奴らをこらしめろ」とか、逆に「こちらが折れて仲良くやろうや」みたいなことではなく、一挙手一投足が後世に大きく影響する緊張状態が続くということです。
もちろん政府の方々は深く考えて行動するものと信じますが。
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