中国の「結果」とアメリカの「機会」、日本の「アレ」

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昨日はほぼ一日ディスカッション。あるいはブレーンストーミングというか。
それと今週末の講演に使うレジュメ(いわゆるパワーポイントである)の作成。
T先生はそういうPC作業をしないので「どうせチョチョイのチョイなんでしょ?」と思っている節がある。
そのため「もうできた?」「まだ?」と、数分しかたってないのに言ってくることがある。

それはいいのだが、昨日とある事案が発生した。
というのも、中国でのSNSの使用状況についてであった。
突然こんなことを言ったのである。
「Facebookの7割は中国なんでしょ?」
「え?」

7割? んなわけない。
「え?じゃないよ。近藤君の資料に書いてあったよ。ちゃんと読むといいよ。勉強になるから」
資料とは、私が作ったものだが……。

「どこに書いてましたか」
「ほらみろ、読んでないでしょ」
違う。読んでないから分からないのではない。
Facebookユーザーの7割が中国人なんてまとめたわけがないから訝しんでいるのである。

「中国でFacebookは使えないですよ。7割なんてありえません」
「書き込みはできなくても、閲覧してるってことでしょ」
「解ってないようですね。閲覧もできません。VPNで違法使用する中国人はいるでしょうけど、それが7割も占めたら大事件です」
「でも書いてたし」
「どこですか」
「えーっと、どこだっけな」
T先生が紙の束を取り出す。T先生は全て紙に印刷して読むからである。

このときの資料は、私が中国の「超限戦」についてまとめたもの(超限戦について分からない方は各自検索してください)だった。
もちろんそこには中国のメディア戦略も含まれる。以下が該当する部分であった。

フェイスブックグループ(Facebook、WhatsApp、Facebook Messenger、Instagram)の利用者の7割以上はグローバル・サウス(アジア、ラテンアメリカ、アフリカ)の人々で、つまり一帯一路の主たる対象国の人々である。欧米のSNSというイメージのあるフェイスブックだが、欧米の利用者は30%未満である。

「中国が7割なんて書いてないじゃないですか」
「グローバルサウス……ほら、アジアって書いてるじゃん」
「中国だったら中国と書くでしょ。アジアには中国以外にたくさんあるでしょうが」
「そっか。でもまあ、似たようなもんじゃん」

どこがじゃい!!!

ちなみに中国で使われるSNSには、WeChat、TiKToK、QQ、QZone、Weiboがある。
これらは世界のSNSシェアの5・7・8・9・10位を占めている。
ちなみにフェイスブックグループは1・3・4・6位。空白の2位は何かというとYoutubeである。
つまり今、世界のSNSはFacebook社と中国企業に二分されており、そこにGoogle(Youtube)だけが食い込んでいる。
日本での印象と異なり、Twitterは意外と少ない。

中国企業が躍進している理由は単純で、中国政府が海外企業をブロック(または規制)しているからだ。
このあたり、アメリカ側の視点で見ると「おまえら俺たちの企業は受け入れないくせに、中国企業は世界で活躍させろってか。ファーウェイみたいにつぶしていくぞコラ」となる。
しかし中国が最初から市場開放していた場合、日本のように全てアメリカにシェアを取られていただろう。
中国にとって人口は最大の武器なのだから、それをみすみすアメリカに譲ることはない。

もし「そんなの実力の差でしょ。アメリカがシェアとって何が悪いの?」と考えるなら、それはあなたが「機会の平等」信者だからだろう。
対して中国は「結果の平等」信者であるといえる。

もし我々がバス停で次のバスを待つ乗客だとする。
「機会の平等」者は、何を置いても「列に並んだ順番」が絶対であり、身体頑健な者が座席を占めて後の弱者を立たせたとしても、それは先に並んだ者の権利だから仕方がないと考える。
せいぜい眉をひそめる程度だ。

「結果の平等」者は、並んだ順番に大きな価値はなく、まずは弱者を座らせるべきと考える。
しかし弱者を決める基準は曖昧で、「機会の平等」者から見ればしばしば不公正が生じる。

つまり「機会の平等」者がいくらおかしいだろ!と叫んだところで、「結果の平等」者には届かないのである。
どちらが正しいかは分からない(いわゆる関西人が使う「知らんけど」である)が、とりあえず個人としてはそういう理解だ。

言い換えれば、アメリカは「平等」、中国は「公平」が国是(あるいは「国体」というべきか)だった。
しかし21世紀の中国は変わった。
結果として「機会」も「結果」も弱肉強食となってしまい、監視だスコアリングだと技術力で強引に丸くおさめようとしている。

中国の武器は人口だが、どうやってこれを慰撫するかで四苦八苦してるのが、いつも通りの中国政府だなと思う。

視点を変えれば、実は「いいとこどり」してきたのが過去の日本だった。
勉強さえすれば自由に出世できるし、しかし成功したからといって海外のように桁外れの富を得ることは稀で、おおむね富は分配されてきた。

このあたりは近現代ではなく、古代から続く日本の形とも関係している。
桁外れの収奪をしない代わりに、政権交代の過程で「族滅」のような大虐殺が行われなかったのが日本の権力史だ。
ただ個人的には、日本の「国是」は平等でも公平でもないと思っているが、下手に書くと言葉足らずで誤解を呼ぶだからやめておく。

推敲せずに書くと着地点を見失う例文のようなことになってしまった。