サラエボ事件から日本の終戦クーデターまで

サラエボ事件から日本の終戦クーデターまで

断捨離。
この10年、完全なる個人趣味としてまとめてきた
「サラエボ事件から日本の終戦クーデターまでの流れ」を全てPDF化。
これで棚の一角が片付きました。

これはSNSにも書いたのだが、友人の高専准教授Aくんと長いやりとりになったので、こちらに記録。
ただの雑談(+私信部分を削除)ですので、流れがあちこちに飛んでいます。

A「pdf化された資料、ちょうど私が高専の歴史の講義でバリバリやってるところです。とても興味がございます!」
私「どのあたり?」

A「特に興味のあるのは、パンスラブVSパンゲルマンのあたりです。青島攻防戦(からの俘虜収容所建設)あたりの日本の動きなどもしっかりやりたいのですが、なかなか時間がなくて。
国際連盟での日本の主張と黄禍論(特にアメリカでの)との関係や、日系人や移民政策とも絡めてなにか出来ないかなと考えています。自分のフィールドの祭礼や日本宗教や文化の1930年代あたりの変容を見る上で、このあたりもキチンとやるべきだと感じています」

私「パンスラブvsパンゲルマンというと、バルカン戦争か。
教科書的な考えから離れるけど、一般的にロシアの南下政策とドイツの半島進出がぶつかったとされるのはほんまかいなと思ってる。
そもそもドイツは本気でバルカン半島のことを考えてたのかねえ。3B政策とか言っても当時国力はとっくに英仏を上回る超大国で、河川交通・鉄道ともに充実してロシアみたいにシーレーンを確保する動機もない。海外植民地だって隣の二重帝国が植民地への興味ゼロなのが象徴的で、ドイツも見栄と英仏への嫌がらせ以外に意味なかったかもしれない。バルカン諸国に興味があったのは、王家の縁戚関係があるヴィルヘルム2世だけで、軍部も議会も半島なんてどーでもええわ、と思ってたんじゃないの?と。勝手な想像だけど」

A「私もドイツ帝国における3Bはどうかな?と思っております。
オーストリア(ハンガリー二重)帝国との兼ね合いなのかなと思っています。ゲルマン的と言うより、ハプスブルク的な政策にドイツが乗ったみたいな。
オーストリア帝国は中欧連合の盟主としての帝国主義なんでしょうね。帝国主義の多義的な解釈も学生たちと考えたいなと思っています。
板東収容所の簡単な文献しか読んでませんが、日本でもオーストリア軍(特に非ゲルマン系)捕虜の扱いは面白いなと思います。
やはり中欧史、バルカン史をキチンとやるべきなんでしょうね。新婚旅行先がまさにそのあたりだったのですが、なかなか凄い地域ですよね。民族とは何か?を深く考えさせられます。魑魅魍魎、色分け不可と私は感じました」

私「オーストリア帝国が面白いのは、「私はハブスブルク帝国人だ」と思ってる国民がいないってことだよね。独・英・露にいたユニオニスト的人士が、二重帝国にはいなかった。
で、イタリーがリビア侵攻を開始してオスマン帝国が防戦に追われたら、よっしゃとブルガリアとセルビアがロシア承認のもとで同盟して、ついでにギリシャなども抱き込んでバルカン同盟になった。とはいえ、ロシアの支援だけで同盟がなせるとも思えず、裏にはオーストリアの意向を無視したドイツの容認もないとなあと見える。だとしたら、やっぱりドイツはバルカン半島なんてどーでもええわと思ってることになる。バルカン諸国は大国が容認してくれるならいつでも戦争すんぞコラってのは、昔から変わらない感じ。魑魅魍魎だね。確かに。
板東収容所の、オーストリア軍(非ゲルマン系)捕虜の扱いが面白いっていうのは?」

A「坂東に関しては当時の日本の認識では、ドイツ(もしくは広義のゲルマン人)の収容が主な理由でしたから、オーストリア帝国内のマイノリティのことまで構う余裕がなかったというのが正直なところではないかと思います。
実際に重営倉によく入れられていた人物では、ゲルマン系以外の人物も結構いたようです。俘虜のほとんどがゲルマン系の中、さらに休戦以降、「民族自決」の名のもとに非ゲルマン系の兵士が真っ先に帰国したことを考えると、板東を含めた各収容所での滞在期間自体も短かったとは思われます。やはりかなり目立っていた、もしくは日本側が手を焼いたのではないかと思います。非ゲルマン系の俘虜側も何のために戦い、何のために収容されているのかという葛藤があったのかもしれませんね」

私「板東ってマツケン主演の映画になったやつだよね。言われてみれば、ゲルマン人の話ばかり(しかも楽団結成とか慰霊碑とか、はたまた神戸に渡ってユーハイムを興すなどの美談)で、それ以外のマイノリティがどうだったかには目が向いてなかったなあ。
どこで読んだか忘れたけど、ドイツ系捕虜数百がイタリア系を「裏切り者」と袋だたきにする大事件があった、みたいなのが記憶にあるな。板東じゃなかったかもだけど」

A「楽団でいうと、関学グリークラブの持ち歌「U boj」なんかも第一次大戦(からのロシア革命、シベリア出兵)の遺物ですもんね」
http://www.kg-glee.gr.jp/uboj/ubojindex.html
今職場で、林啓介『「第九」の里』ドイツ村 』1993、井上書房を読んでますと、やはりポーランド系など異民族の捕虜は隔離収容することもあったようです」

私「黄禍論と移民政策の方も。
引っかかってるのは、これを言い出すのはカイザーだけど、その端緒となった日露戦争以外に人種間戦争の例がなかったことだな。第一次大戦は白人同士だし。
その後の人種差別撤廃法案も、ヨーロッパ本体としては中立。理由はヨーロッパ人と日本人の人種観の決定的な違い。日本人(とアメリカ人)は人種を肌の色と考えるけど、ヨーロッパ人にとっての人種は宗教の違い。だからドイツ人はギリシャ正教を信じるスラブ人をアジア人と考えるし、南欧のイスラム教徒も同じ。
当時日本外務省がこの法案をくり出した根本は、アメリカ大陸の移民一世(永住権はあるが当該国の国籍はもらえない)の保護だろうけど、それよりもっと事態が急迫していた中国大陸移民の保護については、武力行使または帰国命令を出した。現実的に、移民に対して元の国ができることはこの2つしかないと思われ。
となると、アメリカ側は自国の政策に介入されたくないから反対。
イギリスも、オーストラリア・ニュージーランドという2大差別自治領の意向を無視できないから反対。
で、ウィルソンにしてみれば、そもそも国際連盟規約は加盟国(つまり既に独立国)にしか効力がないのだから、法案は訓示以上の意味はない。共和党との関係があるし、山東問題を支持するから人種差別撤廃法案は取り下げてくれと。
ということで日本人には「アメリカ人の言う理想主義は偽物」と映った。すると日本軍部などから「アメリカ型民主主義よりも社会主義、あるいはアジア型絶対君主制回帰の方が良い」と真顔で叫ぶ奴が出てきたと。そんな感じかな。
ほんと、歴史ってのは後から見れば分岐点が分かるけど、その時その場では何が正解か分からず、人々は右往左往するしかないだなあと思う」