映画『初恋の来た道』

映画『初恋の来た道』

中国映画(中国・アメリカの合作)『初恋のきた道』を観た。
チャン・ツィイーが、モンペ姿で井戸くみをしつつ、切ない恋をするという作品。

これは惜しい。
かなり惜しい。

一度見て脚本の問題点はほぼ列挙できたが、念のためもう一度、計2回見た。
題材は良い。感動した。
90分の上映時間の内、60分は泣けるといっても過言ではない。
ちゃんと言っておくが、この映画は題材は良いのである。
しかし脚本の処理に問題があるというか、どうにも「ムダだらけ」に感じてしまう。

この映画、見て感動した人は多いだろう。私もそのひとりである。
だからこそ、「ここをこうしておけば……」とも言いたくなるのである。
「カラーとモノクロの使い分け」
「赤という色の使い方」
など、枝葉のテクニックをちょこまかやってるヒマがあるんなら、どうしてもっとコアの部分にこだわらないのかと。

問題点1
「作者が前面に出過ぎ」
物語の原作者とされる、ションズなる男。こいつがストーリーの端々に出てきて、全体を破壊していく。

昔クリント・イーストウッド監督の『パーフェクト・ワールド』という映画があった。ラスト、イーストウッドの指揮のもと、ケビン・コスナー扮する誘拐犯が射殺される。
あれはどう考えても、イーストウッドが「自分の見せ場」を作りたいという欲望から作ってしまったシーンだ。俳優としての我が抑えきれなくなり、つい警察役としてしゃしゃり出てしまった。
あんなシーン、さっさと済ませてエンディングになればいいのである。
そこを長々と自分を撮してしまう。

この『初恋のきた道』の場合、もしかすると原作はエッセイなのかもしれないが、「作者自身の語りたい欲」が出ている。
だから冒頭で自分を出してしまう。
この事によって最大の問題点、「息子の知り得るはずのない情報を、何故か全て語りまくる」という矛盾が生じるのである。
確かに全部聞いたのかもしれない。
しかし真相は「物語の冒頭を息子の語りで始めちゃったから」ではないのか。
余計な顔出しをするから全体に無理を生じるのである。

問題点2
「父親は何してたの?」
見てない人のため、あまり詳細は言わない。しかし物語の冒頭に「文化大革命の頃は……」という台詞がある。

  • 職業は教師である。
  • 時代は40年以上前。舞台は中国。
  • せっかく来た山村から町へ無理矢理連れ戻される。
  • 「右派弾圧云々」という台詞。

観客は、一定以上の知識のある者なら絶対に「ああ、文革に巻き込まれる悲劇が絡んでくるのだな」と連想する。
ところがどうして父親が連れ戻され、そしてどうやって帰ってきたのかが解らない。何だかわかんないが、どこかに行ってました。

  • 教師などという存在が、
  • 街へ連れ去られ、
  • 一度は無理に脱走し、
  • また二年間戻ってこない。

これらを放り出し、いわば無視して物語が進むのだ。ちゃんと料理しておけば、あの葬儀シーンへの見事な伏線になるだろうが。
(葬儀については後述する)

好意的に見ると、そこには語ると感動の薄れる「綺麗でない真実」が隠されていたのかもしれない。
「言わなくても解るじゃない」と弁護する人はいるだろう。しかしこれでは怠慢だと思う。

問題点3
「あの葬儀は何だったの?」
ここも見てない人のため、あまり詳細は言わない。唐突に伏線無しで語られる、「感動のエピソード」。
私は怒っている。ほんの少し、ほんの少しでいいのだ。
ほんの少し伏線を差し込んでおけば、このシーンは涙涙の大感動クライマックスになっただろう。ところがこんなに美味しいエピソードを、作者は見殺しにしてしまうのである。
何もない。何もないのだ。
あるのは「映画の最後に葬儀がありますよ」というインフォメーションだけ。
このせいで「盛り上がりがぼやけ、物語が2つに割れる」という不味さが生じている。

<結果として>
ラストが延々と間延びする。
そう感じた観客は多いだろう。もしそう思わなかったのなら、貴方は幸せな人である。しかもいい人だと思う。しかしそう思わない人もいるのである。

この映画の最大の盛り上がりはどこだろうか。
ストーリーは「現在-回想-現在」というサンドイッチ構造になっている。
ところがこの映画の場合、さらに、
作者-現在-回想─現在-作者
という二重サンドイッチになっている。

マクドナルドのビッグマックを見ても分かるが、人間が美味しいと感じるのは二段くらいが限界である。三段は良くない。たまにはいいかもしれないが、これを美味しくするにはテクニカルな処理が必要だ。
そしてこの「初恋のきた道」にはテクニカルな処理はない。

この映画の主題はタイトルにもあるように「道」、すなわち人の生きる道である。純愛を失わない、ひたすらな年月の積み重ねに観客は深い感動を覚える。
回想部分は素晴らしい。この映画はどう考えたって、この回想部分がキモである。
つまり、回想から現在にフォーカスが戻り、少女が老婆となった時点で映画はエンディングに向かって疾走しなければならないのだ。

伏線の足りない葬儀シーンはまだ許せる。本当は許せないが、これは単なる脚本上のミスだからだ。最も(脚本処理として)許せないのはションズがいきなりラストで行う行為である。

実際のお話として、あのラストはいいだろう。
あれで感動するのも理解できる。しかし主題とは関係ない。
私は「あれでは感動できない」と言っているのではない。「どうしてちゃんと物語を料理してやらないのか」と言っているのだ。

あれでは、単なる「作者の自慢」である。こんなエエことしたんやで、ワシ。みたいな。そうじゃないだろと言いたい。

私は「回想から現在にフォーカスが戻り、少女が老婆となった時点で映画は終了しなければならない」と言った。
しかしこの映画はそうしなかった。現在に戻ってからも長々と話が続く。「作者の自慢」である。
しかもそれをしかめつらしい悲しげな顔で自慢するのだからたまらない。
その自慢が物語に溶け込んでいないものだから、その伏線を織り込めるはずもない。仕方なくその伏線は消化される直前に、無理矢理挿入される(親子でへ行くシーン)。

観客は次第にダレてくる。おそらく監督も無意識にダレたのだろう。
ラスト、再び老婆が少女となって草原を駆け回るのである。
つまり、観客にもう一度「最も盛り上がっていた回想シーン」を思い出させる処理をしないことには、映画が終われないのである。
とっとと終わってればそんな努力は必要なかった。

少女に戻るラストシーンがない『初恋のきた道』を想像してみよう。
「いい映画だったんだけど、なんだろう、このモヤモヤは……」となったはずである(私は現状でもモヤモヤしてるが)。
息子の学校におけるエピソードが完全に消化さえされていれば、こんな小手先のことなどせずに大団円を迎えることができた。
しかしそれができていない。
ストーリーが盛り上がりを過ぎて冷え込んでしまったからだ。

私は怒っている。
途中大いに感動しただけに、怒っている。