蘇軾の詩歌と食べ物について

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蘇軾と言えば、その号である東坡の名のついた「東坡肉」(トンポーロー、豚の角煮)である。
「慢著火 少著水 火候足時它自美 毎日起来打一碗」(「食猪肉」)。
彼が豚肉を熟煮して作ったそれは「猪肉頌」によって有名になった。
その当時、豚肉は上等の食品ではなく、士大夫が食べるようなものではなかった。
しかし蘇軾は左遷地の黄州で初めて、これを賞味したのであろう。
また杭州での蘇軾は、西湖の治水工事を行うにあたって農民を動員して浚渫を行ったが、きちんと日当を与えるなどして非常に感謝された。
農民はお礼に豚肉を持ってきたが、多くて食べきれないので保存食にしたものが東坡肉と名付けられることとなった。
これは現在も杭州(現在の浙江省)の名物料理である。
「東坡居士自今以往 早飲食 不過一爵一肉 有尊客盛饌 則三之 可損不可增 有招我者 預以此告之 主人不從而過是乃止 一曰安分以養福 二曰寬胃以養氣 三日省費以養財」(「東坡志林・記三養」)。
杭州にて献上された豚肉を保存食として調理した蘇軾は、この詩歌では倹約と養生をとなえている。
朝夕の食事を質素にし、客がきたら少し豪華にする。
分というものを案じて福を養い、胃に優しく気を養い、浪費をはぶいて財を養う。
これこそ蘇軾が自らの人生においてモットーとしたことだったのだろう。
いかなる場にあっても、自らを乱さずくさらず、日々を楽しむということである。
礼記を読めば「君子遠庖厨也((君子は庖厨を遠ざく))」といった教えがある。
文人としては、料理などへの興味を露わにして、酒や茶以外の食べ物をはっきりと詩文の題材にするのはいかがなものかという空気があったはずである。
しかし蘇軾の食べ物についての作品は数多く、「食維」「食柑」「煎米粉作餅子」「豆粥」「寒具」「蜜漬蕩枝」「碗豆・大麦粥」「食桜榔」「椀葉冷淘」「藷枝嘆」「食蕩枝」「玉穆葵」「蔓著藍蔵葵」「食焼芋」「食新麺湯餅」「煮菜」「葺饅頭」などと列挙できる。
また酒においても、蘇軾は自ら醸造法を工夫して新酒をあみだし、自分で名前をつけ、詩文に賦して話題をまいた。
例えば彼が恵州に流されたとき、当地の隠者にならって桂酒を作った。
これを「桂酒頌」、「新醸桂酒」などに詠っている。
恵州で自醸したものは「真一酒」の詩および「真一酒歌」で知れる。
黄州に流された時には、西蜀の道士楊世昌にならって蜂蜜で酒を作り、これを「蜜酒歌」および「又一首、答二猶子与王郎見和」に詠い、定州では松やにを黍や麦にまぜて酒を作り、宋代律賦の代表的な作品とされる「中山松酪賦」を賦したという(「蘇東坡の酒と芸術」矢淵孝良、金沢大学)。
おそらく蘇軾という人は生活に興味を抱き、珍奇なものにはすぐに心を動かし、自ら手を出さずにはおれない人であったと思える。
蘇軾の撰といわれる「格物塵談」「物類相感志」という二書は、いわば実用向きの生活百科全書といったものである。
どちらも当時の日常生活に必要なこまごまとした知識を「衣服」「」「薬品」「疾病」「文房」「果子」「蔬菜」「花竹」「禽魚」など、数十の綱目に分類して集録している。
これは蘇軾が文学者として自然界のあらゆる事象に格別な興味を示したと同時に、鋭い観察眼と幅広い知識とを持っていたことを示している。
もちろん、蘇軾の官僚として左遷につぐ左遷という生活を思えば、食べ物が美味しいということをささやかな楽しみとして逆境を耐えようとしていた部分がなかったとは言えない。
「初至黄州」において、東坡の地は荒れ地ではあるが、それだけ地力があるのだから良かったと楽観してみせたり、「食麗支」で、麗支の果実を一日三百個も食べられるから恵州も悪くないと言う態度からは、彼が苦吟するようなタイプではなく、現状を肯定しようとする人間であることがうかがえる。
羅浮山下四時春
廬橘楊梅次第新
日食麗支三百果
不辞長作嶺南人
(「食麗支」)
蘇軾の詩には、もちろん高雅超脱な、いわゆる「文人的な」作品がないわけではない。
しかし日常の卑近な生活に材を求めた作品が顕著に見られる。
鈎で泥中の魚をとる風習をうたった「画魚歌」、故郷眉山の蚕市をうたった「和子由蚕市」や、田植道具をうたった「秩馬歌」、徐州の石炭をうたう「石炭」などがある。
こうした中、目をひくのが「豆粥」の詩である。
この詩は蘇軾が長江流域を旅していたころの作とされる。
まず詩の詠い出しの部分で、豆粥に関する光武帝と石崇の二つのいかめしい故事を引く。
そして彼らのような境遇では豆粥の真の味はわからない、と批判する。
豆粥の真の味は、平凡なる日常生活の場において判るとうたう。
豆粥という卑近な素材をあつかうが、作品そのものが口語的庶民的であったりはせず、俗臭はない。
むしろ実生活に即した身辺の些事を題材としつつ、表現においては学問知識の力で比喩を用いている。
また哲学を語るなどして卑俗平板な環事描写におちいらぬよう、現実感を保ちつつ作品に高踏性をもたせようと努力しているようにも見える。
このような「俗を以て雅となす」手法は先述の「石炭」「秩馬歌」でも用いられている。
該博な学問知識をほこった当時の士大夫の詩観としては、むしろこのような作風こそふさわしかったのだろう。
こうした詩作の態度は、蘇軾という人の人生観・自然観にもつながっているように思う。
蘇軾の自然観は、それを非情なものであったり、冷酷な善悪の審判者として見るのではなく、人間に無限の善意を与える親しき対象として認識したことにあるのではないか。
おそらく自然の無尽の善意を信じる道家的自然観と、はかない生物の存在をいつくしむ仏教的自然観があって、蘇軾は自然のすみずみにあたたかい興味と観察の目を注いだのであろう。
最初に挙げた東坡肉などのエピソードからも判るように、蘇軾は性格的に誰とも気軽につきあう庶民性を備えていた。
廟堂では堂々たる大官だったが、黄州や嶺海の左遷地では下々と隔てなくつきあい、庶民の生活の中にとけこんでそれを楽しんでいる。
宋代、朱弁の著した「曲旧聞巻六」に次の一節がある。
「東坡嘗与劉貢父言、某与舎弟習制料、日享三白、食之甚美、不復信世間有八珍也、貢父問三白、答曰、一撮塩、一楪蘿蔔、一飯、乃三白也」。
蘇軾が弟・蘇轍とかつて勉強していた頃について語ったものである。
世間の「八珍」といえども、とても「三白」にはかなわない。
三白とはひとつまみの塩、ひとさらの大根、いちわんの白米のこと。
単に食べ物について語っているだけのようで、実は彼自身の人生観がここにも出ているように思える。
人間の平凡な日常生活、つまりお腹一杯食べ、熟睡して、酔っぱらって、という単純な人生現象の中にこそ人生最大の愉楽がある。
そうした楽しみの外側にある殻をひとつひとつ剥いてゆけば、芯にあるシンプルな芯の部分が見えてくる。
考えるに、蘇軾が最も重視したのは、虚飾にとらわれず、本質をとらえるということだったのではないか。
学問技術はあるに越したことはないが、それが全てではない。
蘇軾にとって卑近な題材を詩文に求めることが、思想的な最高概念である「道」という深遠なものに通じていたのではないかと思う。