学習としての「ローマの休日」

学習としての「ローマの休日」
映画は映画として純粋に楽しむといいんですが、起承転結とか序破急といった、物語の「構造」を勉強するのにいい映画というのもあります。 そのひとつが「ローマの休日」。 脚本はドルトン・トランボ。 DVDでは修正されていますが、映画公開時のクレジットは「イアン・ハンター」でした。
当時アメリカでは、マッカーシーによる「レッドパージ(赤狩り)」という思想弾圧がありました。 要は「アメリカから共産主義者を追放しろ」ってことなんですが、トランボは「私は共産主義者ではありません」と証言することを拒否し(自分がアカかどうかではなく、そうした弾圧に与することを拒否した)、パージされていました。 そこで彼は名を隠して「ローマの休日」を書き上げ、アカデミー賞最優秀脚本賞を受賞。 当然、受賞のステージに彼は現れず、ただ妻とふたりで静かに祝杯をあげていました。 たとえどんなに圧力をかけようと、「本物」を作る人間を押しつぶすことはできない、ということなのでしょう。 この辺の話は「栄光なき天才たち」の第1巻に詳しいので、読んでみてください。 (第1巻は他にエヴァリスト・ガロア、人見絹枝、エリシャ・グレイ、古橋廣之進、エンリコ・フェルミ、鈴木梅太郎、サチェル・ペイジと全編傑作状態です) さて、映画の中身なんですが、起承転結は厳格に設定されています。 まず物語の基本として、「出かけた者は帰ってくる」(逆パターンは「来た者は去る」)があります。 「ローマの休日」の場合、これは「コロッセオから出て行ったアン王女は、再びコロッセオに戻ってくる」です。 出て行った主人公は、そこへ帰る。 もうひとつの基本は「主人公に欠けたるものが満ち足りる」。 アン王女に欠けていたものは「王女としての自覚」です。 子供だったアンは、大人になって帰ってきます。 絵ヅラとしては、コロッセオから出て行く前にはかわいい白のナイトガウンだったアン王女が、帰ってきた時には、落ち着いた黒のジバンシーを着ています。 コロッセオに帰るときの衣装とも違うわけで、わざわざ着替えている意図があることは明白。 「起」では、アン王女の「変身前(欠けたる状態)」のキャラクターとしての前提条件を説明しなければなりません。 これが冒頭の謁見シーンと、夜の就寝前シーンとなります。
アンは王女であること
年若く、おてんばであること
王女という職務を退屈でつまらないと思っていること
自分の意思で行動せず、周りの大人にコントロール(薬物で!)されていること
全てを書くのも面倒なので(普段はしゃべるだけなんですが)、後は要点だけ。 コロッセオから出て行ったら「承」。 ここから「転」。
ここが「転の終わり」。
あとは「結」です。 なぜそうなるかは、「アン王女の変化」に注目して観ればわかります。 「ここから転」と書いたシーンから「転の終わり」にかけて、アンの人格が明確に変わります。 『ローマの休日』は観光映画としても大成功しました。 ローマの名所のみならず、ヨーロッパのファッションモード、工業製品の発信としてもアメリカ人に大きな影響を与えたようです。
スペイン広場
現在はここでの飲食は禁止されています。みなさん、ジェラートを食べてゴミを捨てすぎたようです。
サンタンジェロ城
元々は、ハドリアヌスの皇帝廟でした。
真実の口
今でこそ有名な「真実の口」ですが、ローマの休日以前はみんなこんなの忘れていて、観光名所ではありませんでした。 ちなみにこのシーン、グレゴリー・ペックのアドリブで撮影されています。 「口に手を入れてごらん。ウソつきは噛まれるよ」 「えー」(おそるおそる手をいれるアン) 「わっ!!」 「きゃーっ」 これを10代のうちにやった者とやってない者とでは、後の人生が大きく変わるでしょう(私はやってない、いや、できなかった)。
ベスパ(スクーター)
フィアット
カメラマンのアーヴィングが乗っていた車です(フィアット500)。 ちなみにルパン三世が乗っていた黄色いのは、FIAT 500F (NUOVA CINQUECENTO)。こちらは500B。通称「トポリーノ」です。 そういえば、ジョー(グレゴリー・ペック)が初登場するシーン。 仲間たちとポーカーをやってます。 ここは重要なサブキャラであるアーヴィングの紹介。 さらにイタリア・リラのドルレートもさりげなく提示しつつ、「気持ちよく負ける男」であるジョーの性格が表現されています。
ここを観ていて思い出すのが、『タイタニック』でジャック(レオナルド・ディカプリオ)が初登場するシーン。
こちらもポーカーやってました。 ヒーローたる者、勝ち負けはともかく、やはり「勝負する男」でないといけないんですね。 で、ラストシーン。アン王女は去り、ジョーもひとり記者会見場を去ってゆく。 ここで一瞬、「アン王女が戻ってくるんじゃ?」と期待させて、やはりそんなことはない、というのがいい。