乳幼児連れのパリ旅行14(5日め・アンヴァリッド)

乳幼児連れのパリ旅行14(5日め・アンヴァリッド)

廃兵院

朝のエッフェル塔はあきらめ、私たちはシャン・ド・マルス公園で遊んだ。
時間を無駄にしないためである。

時間を無駄にせず遊ぶというのはなんだか不思議な語感があるが、遊びは常に真剣でなくてはならない。
そして疲れ切った私たちはクレール通りでお茶をした後、少し道を戻ってシャン・ド・マルス公園に隣接するオテル・ド・アンヴァリッド(廃兵院、L'hôtel des Invalides)に向かった。
 

大砲がならんでいる
アンヴァリッドの真正面
玄関


写真の建物上部に「Ludovicus Magnus」と掲げられている。「偉大なるルイ」という意味である。

ブルボン王朝で最も凄いルイとは、72年間フランス国王として君臨し、「太陽王」と呼ばれたルイ14世に決まっている。
たぶんそうだと思う。
そうなんじゃないかな。
ま、ちょっと(間違ってる可能性を)覚悟はしておけ。

さておき、アンヴァリッドにはナポレオンの墓がある。
豪華な建物に見えるが元々は軍病院であり、傷病兵の福祉施設であった。
現在は軍事であり、一部はまだ軍病院としても機能しているらしい。

中庭を突っ切った中央にサン=ルイ教会があり、祭壇を背中合わせにしてドーム教会がある。
かつて兵士はサン=ルイ教会側から訪ね、王族はドーム教会側から訪ねることで両者が同時にミサを行えるようにした。
 

中庭
中の教会は圧巻
なんだかわからんが、とにかくすごい


サン=ルイ教会は入場無料、ドーム教会は有料。しかしここもミュージアムパスで入れた。

ナポレオンの霊廟はドーム教会の地下にある。ホール中央が丸くくり抜かれた吹き抜けになっていて、彼の巨大な棺が見える。
 

棺の周りには彼が戦った主な戦場(アウステルリッツ、モスクワ、フリートラント……)が書かれている。また地下への入口には彼の遺言が刻まれていた。
 

どでかい棺のまわりの床に文字が刻まれている


「私は、私が深く愛したフランス国民に囲まれて、セーヌ川のほとりで眠りたい。」
 
それにしても欧米の人にとって威厳のある格好いい建物、というとやっぱりギリシャ・ローマ風なんだな。
かつて西ローマ帝国が崩壊すると、ヨーロッパはいわゆる諸王国の乱立時代となった。このとき一帯は森に沈み、極端に言えば「文明が滅んだ」状態となった。

ブライアン・ウォード=パーキンズの『ローマ帝国の崩壊 文明が終わるということ』という本によると、気候変動などの要因もあって一概には言えないものの、以下の変化が見られた。

◎中下層民の家の屋根が瓦葺きから茅葺きへ
◎貨幣の使用減少
◎統一規格の陶器の消滅

当たり前のことを言うが、ローマ帝国が消滅したからといって人々の知性が減退したわけではない。文明崩壊の原因は、広範で複雑に構築されていた経済ネットワークが断絶したことによる。
人々は集合知を失い、ローマ遺跡をどうやって作ったものか、その技術を理解できなくなった。

たとえば日本でも、弥生時代に作られた銅鐸というものがある。
実は現代日本の技術力をもってしても、古代人が手作業オンリーで作った同じものを作ることができない。
というのも当時の銅鐸を調べると全体の厚みが薄すぎて、その通りに今作ると割れてしまう。そこで復元するときは、一度分厚く作ってから薄く削るのである。もちろん弥生時代の当時、削って薄くなどしていない。

科学技術というものは、一度断絶してしまうと簡単に消え去ってしまうものだ。
おそらくだが、原発関連の技術(核分裂)も早々に日本国内から消え去るのだろう。廃炉技術は残るが、大学工学部から学科がなくなっているのだからどうしようもない。

ということで、当時ヨーロッパではローマ帝国時代に作られた多数の道路や橋などの跡を「悪魔が作ったもの」と伝承する事態さえ出現した。
だからこそ彼らにとってローマ風デザインは、人知を超えたものとして刷り込まれたのか、などとボーッと考えていたのだった。

ナポレオン二世像。
メッテルニヒにより監禁され、幼少時に父は島流しとなり、母に捨てられ、21歳で夭折した(彼は終生父を深く尊敬していた。最後の言葉は「父の前方を行かねばならぬ」であった)。
彼を父の眠るアンヴァリッドへ改葬するよう命じたのは、フランス占領時のヒトラーであった。

ブイヨン・ラシーヌ

ブイヨン・ラシーヌの店構え。「Camille Charter(カミーユ・シャルティエ)」とは1920年代にこのお店のオーナーだった人の名前だ

アンヴァリッドからは、もう疲れているのでタクシーでアパルトマンまで戻る。
一休みして、昼食である。
リュクサンブール公園の近く、6区の「ブイヨン・ラシーヌ(Bouillon Racine)」というブラッスリーに行くことにした。ブラッスリーとは気楽なレストランくらいのニュアンスだろうか。日本で言うと居酒屋、くらいかもしれない。
アパルトマンを借りているロングステイサービス・フランスの方に連絡して、予約を取っておいてもらった。
 

アール・ヌーヴォーな店内
メニュー

店員さんがものすごくテキパキしていて、あまりのスピードにこっちまで焦らされてしまう感じだった。
味は美味しかった。

散策

昼食後はまたもや散策である。
ブイヨン・ラシーヌから少し北上したところにある、フランソワ・プラリュ(François Pralus)という有名なチョコレート屋がある。
 

ここの店員さんは日本人だから、日本語で質問ができる。これはすごくありがたい。先方は、私たちのような観光客で辟易しているかもしれないが……。
まずは名物だという、プラリュリンというお菓子を買った。
小さいやつで6.5ユーロ(Praluline Petite)。アーモンド、ノワゼット、バラのプラリネをまぶしたブリオッシュでとても甘かった。

それから友人知人に渡すお土産なども。
Pyramide Mini Tropique(10ユーロ)
Napo Melange 120g(12ユーロ)
 

フランソワ・プラリュの店内

ソルボンヌ大学

ついでに恩師の母校であるソルボンヌ大学(パリ第4大学)も見物しておいた。

大学周辺のお店にフィギュアショップがあった。いつの世も、オタクと高学歴は不可分である。
 

フィギュアショップの店内。日本の漫画も充実していた。

総目次

01 0日め(準備)
02 1日め(出発)
03 1日め(シャルル・ド・ゴール空港でロストバゲージ)
04 1日め(買い出し……モノプリ、エリック・カイザーなど)
05 2日め(凱旋門・シャンゼリゼ通り)
06 2日め(セーヌ川散策〜夜のルーヴル)
07 3日め(オルセー美術館)
08 3日め(サント・シャペル)
09 3日め(バトー・ムーシュ)
10 4日め(ラスパイユ)
11 4日め(ヴェルサイユ宮殿)
12 4日め(チュイルリー公園)
13 5日め(シャン・ド・マルス公園、クレール通り)
14 5日め(アンヴァリッド、ソルボンヌ大学)
15 5日め(進化史大陳列館)
16 5日め(サンシュルピス教会〜夜のエッフェル塔)
17 6日め(最終日の買い物)
18 レストランケイ(Restaurant KEI)の話